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「豊岡市」は、忠臣蔵で有名な「大石内蔵助」の妻「りく」の生誕地です。
「りく」里帰りの旅姿をイメージした母子像
作家「平岩弓枝」さんの「花影の花」文学碑
高浜虚子と親交の深かった俳人「京極杞陽(きよう)」の句碑
「りく遺髪塚」がある正福寺
正福寺墓地にある「りく遺髪塚」
夫である内蔵助の明かせない心中を理解し、討ち入りを陰で支えた「りく」、わが子を守り三男「大三郎」を広島・浅野家に仕官させ、その行く末を見届けた「りく」。
「りく生誕地」付近の案内板
「元禄時代の城下町絵図」
「りく」は、寛文9年(1669年)の生まれですが、これは京極高盛が京都府田辺(舞鶴市)から豊岡に移封された寛文8年(1668年)の1年後になります。
りくの祖父、石束源五兵衛毎術(つねやす)も京極家に従って豊岡にきました。
養源寺にあるりくの祖父「石束源五兵衛毎術」の墓碑
京極高盛は、藩の財政安定のため「やなぎごおり」の生産に力を入れ、藩財政の安定に努めました。家老職の毎術もともに尽力したことと思います。
「豊岡市史上巻」によると、毎術の孫にあたる「りく」の兄毎明(つねあきら)は、父・毎公(つねとも)を継いで家老職に就きますが、後継者問題から享保の減知により京極藩が3万5千石から1万5千石に減封されたことに伴い、享保12年(1727年)に、家老の毎明も禄が1200石から500石になりました。
このため、毎明は率先して藩の財政を救うため質素倹約と産業振興に努め、「やなぎごおり」の生産と販売により一層の力をそそいだ、と記述しています。
「石束家」をとおして、「りく」と「やなぎごおり」、これから発展する「豊岡のかばん」と、その思わぬつながりが見受けられます。
「大石りく」について詳しいことは、「豊岡観光こばなし」のページをご覧ください。
「豊岡かばん」のルーツも訪ねてみてください。
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