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大石内蔵助の妻−理玖(りく)ゆかりの地

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豊岡のこばなし 大石りく

大石内蔵助の妻−理玖(りく)ゆかりの地

大石りく

歌舞伎や人形浄瑠璃(じょうるり)の人気演目『仮名手本忠臣蔵』の題材がとられた元禄赤穂事件。
その主役、大石内蔵助良雄の妻、理玖は現在の豊岡市出身です。豊岡京極家の家老・石束宇右衛門(毎公)と、佐々成政の子孫・快楽院の長女として生まれました。

理玖が大石家へ嫁いだのは元禄元年の前年頃。その約15年後、赤穂浅野家の内匠頭長矩(たくみのかみながのり)が江戸城で吉良に切りつけ、即日切腹に処断されるという事件が起きます。

良雄は城を明け渡すための残務処理を済ませるため、理玖や子どもたちと共に家老屋敷を出て尾崎(現赤穂市内)へ移ります。理玖の父は不自由を強いられる仮宿に但馬から珍味を送るなどして励ましました。一家は50日あまりの仮住まいの後に京都山科へ移り、良雄は来るべき時に向けて討ち入りの準備を整えます。

元禄15年の4月頃、理玖は身重の体で長女のくうと共に豊岡に帰ります。そして、良雄は討ち入りで罪が妻子に及ばぬよう、その年の10月初旬に離縁の形をとりました。

吉良邸討ち入りは成功。夫と長男の主税が切腹した後、理玖は正福寺で冥福を祈る生活を続け、香林院と名乗りました。

赤穂の浪士たちの行為は人々に感銘を与え、理玖や大三郎が有名になると赤穂浅野家の本家にあたる広島から仕官の話が舞い込みます。大三郎は父・良雄と同じ1500石という破格の条件で召抱えられ、理玖と一緒に広島へ移りました。

理玖は大三郎(やがて良恭・外衛)の行く末を案じながら、元文元年(1736)広島で68歳の生涯を閉じます。墓は、広島市の国泰寺の大石家墓地に大石外衛と理玖の母子が並んでいます。

豊岡「正福寺」にあるのは「理玖の遺髪」を納めた「遺髪塚」です。

「理玖(りく)」の命日は11月19日で、毎年「豊岡理玖子会」のみなさんが追悼法要を行っています。

「正福寺」には、広島に住んでいた「理玖(香林院)」が「享保3年(1718)」の内蔵助と主税の13回忌にあわせて寄進したとみられる「けいす」があります。

生誕の地
理玖は豊岡市京町にあった石束家の屋敷で生まれたのではないかとされています。現在、約50メートル南側に「大石陸女生誕之地」の碑が建立されています。当時は城山(神武山)のふもとに陣屋、それをとりまくように家老級の屋敷があり、東側の広い範囲を石束本家が占めていました。
参考文献: 瀬戸谷晧著 『忠臣蔵を生きた女―内蔵助の妻理玖とその周辺』 北星社 2005年
瀬戸谷晧著 『大石良雄の妻―理玖の生涯 』2010年
平岩弓枝著 『花影の花―大石内蔵助の妻』(新潮文庫) 新潮社 1993年
正福寺(香林会館)
香林会館りく塚 香林会館敷地内に理玖の遺髪塚があります。
父毎公(つねとも)は宝永6年(1709)ころに職を退くとともに日撫(ひなど)の正福寺に居住するようになり、理玖と子どもたちも広島に移るまでの4年間、一緒に住んだのではとされています。
豊岡市日撫
0796-22-8111豊岡観光協会
※遺髪塚は見学自由
駐車場あり
大石理玖父母・石束家墓地
豊岡市三坂町宝林谷(旧豊岡藩主京極家墓地内)
父 風流院殿 石束源五兵衛毎公  命日 7月29日
母 快楽院殿   命日 6月2日
大石吉之進墓地
豊岡市三坂町大門山墓地(旧興国寺)
大石内蔵助 りく 次男 祖錬元快禅師  命日 3月1日
大石吉之進墓地保存会では命日に供養しています。
随時ご参拝ください。
豊岡市三坂町
0796-22-8111豊岡観光協会
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